猫のぬいぐるみを雨の中に置いていく。

笑いを追求しているブログです。

堀江健司

1989年12月9日。

それが僕の生年月日だ。

その時には神奈川県の川崎市というところに住んでいたというが、一欠片も思い出せることはない。

ディズニーの写真と「毎日のように行ってたのよ」という言葉だけしかない。

一歳頃にはアトピー性皮膚炎を発症している。

それは今でも続いている。

中学生の時には膝の裏が酷いことになっていたのを思い出す。

机で立つ時に痛かったのを思い出す。

酷い時は塗り薬が無くて痒すぎて三日寝られなかった。

あの時もきつかったなぁ。

話は戻ってそれから宮崎→鹿児島→福岡→鹿児島→宮崎に転校して行った。

思い出せる範囲で一番古い記憶は。

福岡に行った時に年長さんでした。

初めて幼稚園に行った時にそこの園長先生と会って、顔も思い出せないが恐いと言った。

それから幼稚園には行かなかった。

母親が行かなくていいと言った。

公園で遊んでたらしい。

もしくは。

1回目の鹿児島の時にアパートの下でゲームボーイをしていて(ちなみにワリオのなんかだった気がする)(ほかにも幽遊白書のなんかもやってた記憶がある)男の子に(その時は俺も男の子だったが)覗かれた記憶がある。

ちなみにアパートの裏に階段があってそこの一番上から飛び降りて遊んでいた。

だから1回目の宮崎の思い出はない。

幼稚園の記憶もない。

小学校に上がってからの思い出は九九をすぐに覚えられたことと頭にボールが当たってクラっと来たのとライトに守ってたらションベン漏らしたことくらいかな。

あとは雪が降って授業が休みになってみんな楽しそうに遊んでいたことかな。

あとは特に思い出はないね。

四年生になったら鹿児島に転校になった。

父親がJTで働いていたから。

平社員なのに給料は良かったらしい。

30万くらい。

鹿児島ではやっと自意識が芽生え始めたぐらいかな。

優等生と言われたことと持久走で4位になったことくらいかな。

「小さいのにこんなに速く走れるんだからみんなも頑張りましょう」みたいなことを先生が言っていた。

5年生で宮崎に着き、やっと念願のマイホームを都城に建てて、今年で18年経ちました。

月日は早いものです。

ど田舎だったのですぐに友達もでき、楽しい日々を過ごしていました。

パソコン室でエロ画像見たり。(俺ではないが)先生に半ギレで返事してしまったり(これは俺だが)、体育館の奥でタバコを吸ってるやつがいたり、文化祭の練習をサボったらミチコ先生がキレてるって話を聞いてみんなそわそわしたり、勝手に学ランを着る中村愛がいたり、寝てる時に顔を背けるとショックな高橋由紀子がいたり、部活サボってみたり。

部活は卓球をやっていた。

楽しくなかったが。

なぜ楽しくなかったか分からないが。

今では楽しくやっている。

中学の話はこれくらいにして次は高専の話をしよう。

正直にいうと高専のスタートでつまづいた。

もっとうまいことやれば良かったと思っている。

つまらなかった。

何もかもが。

そういう年頃だった。

ロボコンにも入ったがすぐに辞めた。

三年の時に限界だったのと成績が良くないので退学した。

本当は大学受験したかったんだけどうまく行かなかった。

退学してニートになったが何にも負い目も苦しみもなかった。

気楽にニートをしていた。

父親はどうも気に食わないらしく、「どうするんだ?」の一点張り。

父親ともこの頃衝突をしていた。

頭がおかしいんだと思う。

それ以上は言えない。

俺がケータイを投げつけたり。

近寄ってきて腕組みして睨みつけるだけ。

頭がおかしい。

それはいいとして。

大学に行くとか言って結局行かなかったり(宅浪すると言っても言うことを聞かずに予備校に入れたり)、若者自立支援塾に行かせたり、家庭のことはほとんど何もしなかった父親。頭がおかしい。お話し合いになれない。

退学してから一年ブランクがあっての東京に行きました。

ゲームの専門学校に行きました。

今でも思います。

ゲーム制作に関わってみたいなと。

3ヶ月で帰ってきました。

埼玉の戸田市に住んでいて専門学校があるのは新宿です。

知ってる人もいると思いますが、コクーンタワーのとこです。

戸田市というのは僕にとってはショックなところでした。

都会というところが僕にとってはカルチャーショックだったのかもしれません。

そもそも働きたくない人を無理矢理引っ張り回したからこうなってしまったと反省すべきですよね。いかれポンチは。

その後宮崎市で自殺未遂をします。

なぜ宮崎市なのかというと、働くからと言ってすぐに宮崎市にアパートを借りて住んでいました。しかしなかなか働き口も見つからず、死んでしまおうと思いました。

しかしやったのは睡眠薬を30錠ほど。

洗剤を水に薄めて飲んだが、吐かせようとしたのは神様だったのかな?

そこで幻覚を見て、警官に泣きついて、その日は終わりました。

実家にまた連れ戻らされて。

地獄の日々が始まりました。

覚悟のない方はもう読まない方がいいと思います。

殺気を出していたのに気付きませんでした。

誰からも見捨てられてしまいました。

東京から帰ってから一年はきつくて暗くて暗澹としていました。

それからニコ生というものに出会って救われました。

楽しい日々を過ごしていましたがそのうちブームは去って行きました。

自分で配信しようと思ってやり始めたのがいつか忘れました。

livetubeでやったら顔出し配信だけでかなり人が来ました。

トークは昔はもっと暗い少年でしたので下の下くらいでした。

時系列を覚えてないがとなりのひとが車から何か言っているのが聞こえ、キレた思い出があります。

その人たちは生きているのでしょうか?

東日本大震災もあり、心が痩せ細っていました。

それから2012年11月3日にブチ切れて失神しました。

オーラをおかしくさせられていました。

おかしな年の重ね方をしました。

42度の熱も出たこともあります。

ただの知恵熱でした。

父親も母親も俺の異常事態に気付かない頭のおかしい人たちでした。

その後は薬を飲み始めてブクブク太っていきました。

そして2013年の末に大空館に行きました。

楽しかったです。

またあんな風に楽しく過ごせたらなぁと思います。

釣りをしたり、カラオケに行ったり、カルタを作ったり、七夕の短冊を作ったり、実習生が来たりもしました。

そのうち2015/5が来ました。

後は割愛させていただきます。

以上です。